僕の属する教会は、創立以来戦う教会・怒る教会としてある意味有名である。
何のために怒り、何のために戦うのか。
それは・・・・・・・虐げられている人たち、いろいろな意味で困難な状況にある人たちのため・・・・・・・である。
戦う相手は、いつも権力者であった。
戦いの武勇伝は数知れず、神学生の時代からその存在を知っていた僕は、この教会に深い共感を覚えながらも、同時にとても怖い存在という印象を持っていた。
しかし、不思議なご縁で僕もその教会の一員となり早二十数年。
怖いと思っていた人たちは、実はとても暖かい人たちで、先頭を切って戦っていた牧師には、彼が亡くなるまでとてもお世話になった。
そしてこの教会・・・・・・・まだまだ戦うという遺伝子が健在である・・・・・・・・・。
ところが・・・・・・・・・問題は・・・・・・・・・この僕・・・・・・・・・・・・・この私・・・・・・・・・、戦うという文字が自分の辞書から一切消えてしまった。
愛だけが実在、敵(と思い込んでいる人)の中に、いかにしてキリストを見出すか・・・・・・なんていう話を皆の前でするものだから、ちょっとばかり浮いてしまう・・・・・・・。
礼拝の後、同僚の牧師と握手を交わしながら、「増田さん、駄目だよもっと怒らなきゃ」と進言され、「怒ると腹が減るから」などというギャグは絶対に滑るのでぐっと堪え、「こんなのが一人くらい居てもいいでしょ」と笑いながら答えて教会を後にしたのであった。
それにしてもこの闘争心の無さ・・・・・・・・・・、全てはありのまま、来るものは拒まず去るものは追わず・・・・・・・・・なんとかならないものかとも思うのだが、ここにこそ何ものにも脅かされない心の平和がある・・・・・・から、仕方がない・・・・・・・・・・・。
帰りは途中下車して「渋そば」の冷やしかき揚げ蕎麦。
最高に幸せ・・・・・・、二日前から考えていた計画的立ち蕎麦・・・・・・であった。
いつかはこんなこともしてみたい。